だいたいでいいのだ。

2ヶ月ほど素人ながら仏教のことを学んでみた。
ひょっとしたら私でも信仰できる宗派に
出会えるのではないかというワクワク感。

でも仏教の成り立ちや宗派を
調べれば調べるほど知れば知るほど
「ああ、仏教(宗教)は人間が
作ったものなんだなぁ」
何度何度もそう呟いてしまった。

初めは信仰自体に感心していたけれど
ところが一皮めくれば人間の生臭さや
時の権力に絡め取られ擦り寄る歴史や実情。

自分こそが正統で正しいと、同じ宗教でも
他宗や別派を攻撃するのは当たり前。
派閥内でも熾烈な権力争いなどなど。
まるで俗世の縮図がそこに。

最初のうちはそんな権力争いですら
おもしろがっていたけれど、
流石に段々食傷気味になってきて
「ううっ、とりあえず仏教のことは
ここまででいいかな。。」と今に至った。

宗派が違えば信仰の方法やしきたりもまるで違う。
でも、念仏を唱えたら地獄に落ちるぞ!とか
よそは悪魔の宗派だ!とか、よその宗派を
コケ下ろすのは聞くに耐えない。

各宗派の憲法にあたる経典の根拠を
たどっていくと当たり前に
誰か(作者不詳だとしても)の考えに行き着く。
経典とは誰かが真剣に考えただろう知恵の紙。
でも「人間の紙」では説得力がないから
夢枕に立ったとか、すごいパワーを授かったとか
何かが降臨したとか、生き返ったとか、
海が割れたとか、空を飛んだとか、宗教には
不思議な話が必ずセットされているものだ。

その経典も不変ではない。
その時代やいろんな背景や事情に合わせて
経典も解釈も付け加えられたり変化していく。
もちろんそれぞれの経典が「うちのお経が
一番正しく正統である」と断言してるけど。

仏教に限らず大昔から今日まで変化を繰り返すと
何が正統で何が正しいのかなんて
もう誰にもわからない。
(この本では、日本の仏教経典は全て偽書だと
寺の住職自身が告白しているところが面白い)

ただ、本物でも偽物でも人を救えるのが
宗教だと思いたい。

誰もが自他の幸せを願い、
豊作や安全、
心の安寧を
求めるのに

手を合わせる。

願う。

祈る。

それで十分だとぐるっと一周して気づいた。

宗派や経典は祈る人のために存在する。
宗派や経典のために人が祈るのではない。

だからだいたいの理解でいいのだ、
今は、だいたいって大事なのだと思える。

またいつの日にかその続きを探って
見たくなる日が来るかも知れない。