スクランブル交差点と安達太良山

都会では、僅かばかりの街路樹と生暖かく吹く風とアスファルトに照り返す強い日差しからしかなかなか自然を感じられない。

 

統合失調症を患った画家で彫刻家の高村光太郎の妻・智恵子は、福島県の小さな街の造り酒屋の出。「智恵子抄」の中に、彼女が「東京には空がない」とつぶやくシーンがある。

今日は初めて、なんとなく彼女が言っている意味がわかるような気がふっとした。


智恵子抄「樹下の二人」の一節 「あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)」

光太郎と智恵子の二人が登った安達太良山と阿武隈川が両方見事に見渡せる小高い丘。そこから見下ろすと、そこには彼女が生まれ育ち破産してしまった酒蔵が見える。智恵子抄を読んでどうにも行って見たくなり、小学5~6年生の時だったか一人その場所を訪れたことがあった。

蒸し暑い東京の街を歩きながら、どういう訳だかその時に見た安達太良山と阿武隈川、酒蔵の風景が鮮明に思い浮かんだ。

 

 

高村光太郎「智恵子抄」から

結婚から10年後の作品。最も幸福に満たされている時代の詩。光太郎が東北福島にある智恵子の実家に帰省していた時のもの。ここに出てくる阿多多羅山とは、現在の安達太良山(あだたらやま)で、福島北部にある火山。智恵子の実家は酒蔵でした。
                  

  ~樹下(じゅか)の二人~


あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)

こうやって言葉すくなに坐っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬の始めの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、

 下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙(ゆうみょう)な愛の海底(ぞこ)に人を
誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟(けぶ)るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を
注いでくれる、
むしろ魔物のように捉えがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた
空気を吸おう。
あなたそのものの様な此のひんやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都(東京)、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いています。
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を
教へて下さい。


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

 

 

  ~あどけない話~

智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。