盛者必衰の理

江戸時代、隣町の兼山町(現在は可児市に合併)は極端に小さな町ながら栄華を極めた。これはその兼山(昔は金山と呼んだ)商人の手法と栄華~衰退を古文書を訳して記録した貴重な文献である。

 

兼山は木曽川の湊(水運港)があり、殿様や尾張藩の御威光・塩の専売特許権で栄華を極めた。遠くは苗木藩までの広域で「塩と海魚の専売特許権」を取り付けたことで稼ぎに稼いだわけだ。当時は「兼山に行けば何でも揃う」と言われたほど一大物流基地だった兼山。後にお茶の集積地としても栄えた。隆盛時には今でも残る短い街道筋に酒屋だけでも25軒を数えたという。

 

その兼山湊が衰退したのは、川下の可児の湊、川上の八百津の湊ができたことで兼山湊の利用価値が低下したこと、専売特許のはずが対岸の和知や八百津などで塩の自由売買が始まり、その流れを止められなかったことにある。古文書には「このままでは兼山湊は困窮してしまうので、他の地域では自由な塩の販売を許さず、昔通り専売として流通する全ての塩は必ず兼山の湊を通して欲しい」と悲鳴にも近いトーンで何度も何度もお上に陳情する様が見て取れる。が、結果から言うと、一部を除きお上に陳情を聞き入れられた形跡はなく、近隣湊との利権争いに負け続け二度と往時の栄華は戻らなかったと思われる。

 

戦国時代から幕末まで続いた兼山湊一番の栄華を極めた実力者、山本藤九郎(代々藤九郎と名乗った)一族は、本業の衰退とともに愛知県入鹿池周辺他の土地開発に巨額の私財をつぎ込み失敗、藩に対しても一定の政治的発言力があったものの結局は尾張藩に利用されただけで、明治になって兼山町から転出しその後の行方は一切わからない。

まさに盛者必衰を絵に描いたような歴史だ。

 

資料は古文書なのに、そこには現代に通じる示唆がたくさん含まれている。1・利権を獲得すれば大儲けできる。2・が、最終的には自由な経済活動は規制できない勢いになる。3・既得権にしがみつこうとする=柔軟な発想ができず衰退する。4・時代の変化に即応できないばかりか新勢力を攻撃し周辺との関係性を更に悪化させる。5・最後までお上の裁定にすがりつく=自力で生きて行こうとしない。6・商業にとって地理的条件の重要性。7・専売特許に生まれ栄え、専売崩壊と共に衰退するのは自明の理。

 

スケールこそ違え、現代のTPP問題にどう対応していくかなど兼山の歴史は時を超えて参考になる。

「変化こそが真理」こだわり・とらわれ・行動せず・変化できない者は必ず衰退する。衰退自体は悪いことではないが、愚痴と批判ばかりの人間にはなりたくないもの。

 

さて、兼山湊に替わって栄えたのが八百津湊と可児湊。

その八百津湊も可児湊もダムで木曽川が寸断され水運業は終了、陸運時代を迎え短い繁栄を終えることになる。

現代では兼山が「田舎者」と下に見ていた可児の街が、10倍以上の人口になり、ショッピングセンターを始め大きな商圏として発展目覚ましい。

 

それに対して現在の兼山・八百津の街並みは静寂そのものだが、往時の繁栄はよく見れば街並みの細部や雰囲気、お祭りなどに見ることができる。

現在発展目覚ましい可児市も、やがて時代の流れと共に衰退し、繁栄の地位を他の地域に渡す時が来ることだろう。永遠はない。だから面白い。