永遠の0

映画「永遠の0」

小説を読んであらすじは知っていたのに、前半から涙がダバダバ。

 

それにしてもほとんどの戦争映画は、その不条理さを下っ端の無能な上官のみにぶつける。個人の問題へのすり替え。

 

個人の問題に留まらず不条理さを追っていけば、至極当然に誰が戦争を始めたかという責任問題に行き着く。この戦争の場合、開戦前後~終戦までに内閣がコロコロ変わり、一体誰が戦争を始めたのか分からない仕組みになっている。一連の決定の中で、最高責任者として在り続けたのは天皇だけだ。つまり、天皇に戦争責任はある。ただし、それは公然のタブー。今のこんなご時世ではなくもうずいぶん前のこと、天皇の戦争責任発言をした長崎の本島元市長は銃撃された。

 

国のトップが責任を取らなければ、その下が責任を取るはずもなく、日本にはその文化というか歴史は脈々と続いている。政治家、東電、原発、日航、JR、お偉いさんはとかく「武士道」的言葉が好きと相場は決まっているが、ぎりぎりの段階では必ず逃げる。

 

「永遠のゼロ」は小説として映画として、シナリオはとてもよかった。だから泣けた。ダバダバ泣いた。

でもそれは、この映画には、日本の脈々たるタブーに切り込むような危なさや鋭さは描かれていないと、小説を読んで知っていたから「安心してダバダバ」泣けたのだ。反戦か娯楽か、そのどちらにも見える。

 

芸術はなんでも表現できる領域だと信じたい。

残念だけど、忌野清志郎の反戦反核の歌だったり、映画「行き行きて神軍」などの全く泣けないし狂気一歩手前、強烈に辛辣でタブーをタブーと思わないギリギリな表現活動する人は、これからはもう出ない気がする。